レイモンド・レッパード

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レイモンド・ジョン・レッパード(Raymond John Leppard, 1927年[1]8月11日[2] - 2019年[3]10月22日[4])は、イギリス指揮者チェンバロ奏者、作曲家音楽学者[5]

ロンドン出身。5歳でピアノを始める。[1]1938年からバースに移住してベティ・アレンにピアノ、マーベル・ウィルソン=ユアにヴィオラ、ユージン・ハンソンに声楽を学んだ。1944年からシェアボーンのアーネスト・リード夏季オーケストラ学校で首席ヴィオラ奏者を務め、1945年にはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへの奨学金を得たが、兵役の為、カレッジへの入学は1948年まで持ち越されることとなった。[6]トリニティ・カレッジに入学後、1953年に卒業するまでに、A.D.C.劇場でのピーター・ホール、ピーター・ウッド、トビー・ロバートソン等の演出による劇の音楽を監督したり曲を提供したりし、ケンブリッジ大学マドリガル協会にテノール歌手として参加したり、同大学音楽クラブのコンサートに関わり、チャールズ・ディブディンのオペラ《南京錠》の上演でオーケストレーションを担当したり、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲第17番の演奏にピアノ独奏で参加したり、自らの作品を上演したりした。また、ケンブリッジ大学音楽協会のコンサートで首席ヴィオラ奏者として参加したり、時折指揮者としても登板したりし、1951年から1953年までケンブリッジ・フィルハーモニー協会に指揮者として出演して経験を積んだ。[7]さらに、カレッジ在学中にケンブリッジ大学教授のボリス・オードの影響を受けて18世紀以前の音楽に熱中し、チェンバロも学ぶようになった。[8] 1953年には自らの名前を冠した室内管弦楽団を組織し、ロンドンで指揮者としてデビュー。[9]1954年から翌年までグラインドボーン音楽祭の補助指揮者及びチェンバロ奏者を務め、1958年から1968年まで母校のトリニティ・カレッジで音楽講師となった。[10]1959年から1970年まで[11]及び1980年から1981年まで[12]イギリス室内管弦楽団の音楽監督。1969年にはニューヨークのリンカーン・センターで指揮者としてアメリカ・デビュー。[13]1973年から1980年までBBCノーザン交響楽団の首席指揮者を歴任。[14]1984年から1988年までセントルイス交響楽団の首席客演指揮者となり、1984年から1986年までセントルイス交響楽団による夏季音楽祭の芸術監督を務めた。[12]1987年から2001年までインディアナポリス交響楽団の音楽監督。[1]1983年にCBE受勲。[15]2003年にアメリカ国籍を取得。[16]

インディアナポリスにて死去。[4]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  2. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  3. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  4. 4.0 4.1 アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  5. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  6. Lewis (1993) LewisThomas P. [ Raymond Leppard on Music ] Pro/Am Music Resources 1993 9780912483962 447
  7. Lewis 1993 447-448
  8. Lewis (1993) LewisThomas P. Introduction [ Raymond Leppard on Music ] Pro/Am Music Resources 1993 9780912483962 xi
  9. Lewis 1993 448
  10. Lewis 1993 448
  11. Lewis 1993 449
  12. 12.0 12.1 Lewis 1993 455
  13. Lewis 1993 452-453
  14. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  15. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
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